「必ず彼に手を開いて」の通り、助けを必要としているユダヤ人に喜捨をすることは前向きな戒律である。
「手を閉じてはならない」とあるのは、助けを求めている人を無視する人は罪人であるという、後ろ向きな戒律である。
信仰の重要な原則はツェダカ(喜捨)の法により明らかです。
金銭や物品を寺社や困っている人に差し出すこと
私たちと財産との繋がり
喜捨についてのミツバを理解するためには、人とその人が所有する財産の間、特にその人自身の努力によって築いた財産との間には特別な繋がりがあるという原則がヒントになります。
タルムードでは、「高潔な人は自分の身体よりも自分の財産に価値を置く。それのおかげで、人の物を盗まずに済むからである」と言っています。
また、エレヴ・ヨム・キプールの祈りから学ぶように、自身の努力によって得られた財産は、主から直接受け取った贈り物のようなものなのです。
ある程度、私たちの財産は私たち自身の延長であると言えます。
しかし財産との繋がりは、財産をむやみに溜め込むためにあるのではありません。
それどころか、喜捨をするための大きな力を持つことになるという意味で、財産を持つことを心から喜ぶのです。
なぜなら財産は私たち自身の延長なので、そこから何かを渡すことは、ある意味で自身の一部を渡すようなものだからです。
ユダヤ人の伝統では、積極的にこれを分け与えることに関与しなくても、喜捨のメリットを得ることができるとしています。
例えば、「忘れられた一束」のミツバは、その一束を貧しい人が手にすることで満たすことができます。
ラシはここから、もし誰かがコインを落として、それを貧しい人が見つけて利益を得たとしたら、コインを落とした人は特別な祝福が得られるという学びを得ました。
究極的には、喜捨のミツバは民族との生き生きとした繋がりを作るためのものなのです。
大切な財産を共有することで、他人への気配りと関与を示すことになります。

与え手か、受け取り手か
このミツバを単純に理解すれば、貧しい受け取り手を助けるためのものだということになります。
トーラーでは次のように言っています。
あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟に向かって、心をかたくなにしてはならない。
また手を閉じてはならない。
必ず彼に手を開いて。
このミツバは民族の中に貧しい人がいて初めて成立するのであり、そのことによって受け取り手を助けるという与え手の役割が発生するのです。
しかしラビ・アキバは、このミツバについて全く逆の見方をしています。
ある時、ローマの統治者トゥルヌス・ルフスがラビ・アキバに尋ねました。
「あなた方の神が貧しい者を愛しているのならば、なぜ神は彼らを助けないのか?」
ラビ・アキバは、「私たちは、彼らのおかげでゲヘナの裁きを免れているからです。」と答えました。
これは言い換えれば、民族の中に罪ある人がいて初めて成立するミツバであるということになります。
そうなると、受け取り手の役割は、与え手にミツバを満たすに値する対象を与えることだと言えます。
このミツバは受け取り手のためのものであると同様に、与え手のためのものでもあるのです。
この考え方は、説話の中だけでなく、多くの法にもはっきり反映されています。
ラムバムが明らかな例を一つ示しています。
ミシュナーでは「すべては行動の数次第である」と教えています。
ラムバムは、一つ一つの行動の大きさよりも、数の方が特別な重要さを持つと説明しています。
それゆえに、多額の喜捨を一度するよりも、少額の喜捨を何度もする方が好ましいと書いているのです。
喜捨は、寛容さを示す性格の特徴を伸ばすものであるからこそ、これは与え手の利益になるものであり、受け取り手のためではないのです 。
次に見るのは、類似のメッセージを持つ二つの例です。
私たちは少なくとも収入の最低10パーセントを寄付しなくてはならない。
しかし与え手自身が喜捨を必要とするようにならないために、20パーセント以上を喜捨することは適切ではない。
この喜捨の金額を制限するという古いウシャ(イスラエルの地名)の布令には、経済的に独立することの重要性がメッセージとして込められています。
これについては後ほど検討します。
自分の経済的な独立が脅かされるほどの喜捨をすべきではありません。
この理由から、飛び抜けて裕福な個人は20パーセントを超えて喜捨することができますし、喜捨することが望ましいとされます。
これは、収入のほんの一部分だけでも生活に必要な全てを賄えるような裕福な人の場合です。
ラビ・モーシェ・ファインスタインは、与え手にとっての喜捨の重要性をまた別の観点から見ることを提案しています。
彼は、自分が食うに困らない程度のお金を取っておく義務がある時、自分もまたいつの日か、食うに困ることになり得ると心に留めることになると説明します。
喜捨をしないことで、喜捨に使わなかったお金や物についてより深く考えることになるのは確かです。
自分の生活を喜捨に頼っているような貧しい人でさえ、自分が受け取ったものの中から、助けを必要としている他の人に喜捨をする義務がある。
貧しい人に喜捨をするとき、衣、食、住の基本的な必要が満たされるような物を贈ります。
また同時に、その貧しい人が喜捨をするために必要な物を追加で渡さなくてはなりません。
つまり、喜捨をすることは食べ物や衣服といった、人間の基本的な要件であるということです。
共同体には、貧しい人たちが他の人に喜捨をするための手段を整える義務があります。
ハシディズムの考え方においては、喜捨のこの部分には神学的な側面があるとされています。
世界において物質的にも精神的にも窮乏しているような状態が存在するのは、主なる神に比類なき恩恵を示すことができるようにするためである、と言います。
喜捨をすることによって、主の道に従うという独特のレベルを達成することになります 。
喜捨は常に、受け取り手の尊厳を守るような形でなされなければならない。
理想的には、受け取り手は自らを助けるための手助けを受けるべきである。
あらゆる場合において、与え手は穏やかに振舞わなければならない。
もし怒りの感情とともにこれをするのであれば、彼はこのミツバによって得られる利点を失うことになる。
万が一受け取り手の態度が悪くとも、与え手は怒るべきではなく、ただこの試練は彼の利点を増すだけだと知るべきである。
ユダヤ法では厳格に、施しを求める者に対しては穏やかで励ますような態度を保つべきだと注意しています。
これは、貧しい人々が時々悪態をつくということに注目したうえでも、一顧に値する忠告です。
貧しい人は最低限の生活にも希望を無くしており、辛抱強さを持たないのが普通です。
それに、貧困はその人の自己評価に対する大打撃であり、多くの人は、自分にそれだけの価値しかないから罰としてこのような生活を送っているのだと考えてしまいます。
実際に多くの人にとって、貧困とは、自分への自信や自分に対する評価を欠いたことの「結果」なのです。
このため、貧しい人々と話すときには相当な辛抱強さと自制が必要とされます。
こうすることによってのみ、貧しい人は、悲しみから抜け出すための妨げとなっていた後ろ向きな感情や、今の事態を招いた元々の原因かもしれない感情と向き合うことができるのです。
貧しい人を助ける理想的な方法としては、直接物を送るよりも貸付の形の方が良いという理由の一つはこれなのです。
貸付金は当座の助けとなると同時に、与え手から受け取り手に、すぐに自立できるようになるはずだという信任を与えることができるからです。
働く義務
賢人たちは、たとえ品位を落とすような仕事であっても喜捨を求めるよりは働くことを求めます。
この助言の背景にあるのは単に実践的な問題ではなく、宗教的な問題でもあります。
ここに示されている懸念は共同体のためではなく、貧しい人々自身のためなのです。
アダムとイブは自分たちの生活のために働く必要はありませんでした。
必要なものは全てエデンの園で手に入りました。
罪を得て初めて、人の生活は「顔に汗して」働くことに依存するよう定められたのです。
これは罰でもありましたが、同時に罪の代償を乗り越え、補完するための方法でもありました。
「正しい行い」で説明した通り、アダムとイブの罪とその後の運命も、トーラー(生命の木)に至る道も、デレク・エレツ(深い思慮)によってたどり着けるのだとミドラッシュでは説明しています。
人は神の姿に似せて創られたので、私たちの究極の目標は可能な限り、神の意に沿う行動を取ることによって、この似姿を本当の姿に近づけることです。
しかし私たちは、様々なレベルで神の影響を経験します。
神は地上世界の創造主であり、審判を司る者であり、道徳の源となる権威であり、自然および社会的な現実さえもはるかに超えた超越者であり、世界の主なのです。
この並び方は理解しやすいでしょう。
人間特有の道徳的・知的な能力は、動物にも共通してあるような身体的な能力よりも上位に位置するものであると考えられています。
特別な精神的能力(特に預言の民であるユダヤ人に顕著な能力)はさらに上位に位置します。
アダムとイブが直面したのは、最も重要な道徳の問題でした。
主の名に従い、主の持ち物を敬うことでした。
正しく道徳的な行いがなされていれば、精神的な完成への道が開けていたことでしょう。
実際はそうではなく、彼らは道徳的な義務ではなく、物質的で動物的な性質に価値を置いたのです。
自分たちをこの低劣なレベルに置くことで、人類はこのレベルにおける神のあり方を模倣することを求められました。
すなわち、ありのままの物質世界を補完し、道徳的で精神的な振る舞いが住まう世界にせんとする試みの中で、主なる神と意を同じくする者となることです。
私たちは生活の方便を得るため、土にまみれて働かなければならなくなりました。
思慮深い道徳的な行いをせずに預言を受けようとしても、それは一足飛びに物質的なレベルから精神的なレベルに移行するようなものなので不可能です。
同様に、人類全体としては、この段階を経ずして物質的な補完を超えてその上のレベルに一足飛びに進むことはできません。
このレベルはまた、神の進まれる道を進もうとする試みのなされる場所なのです。
ラビ・ナフマン・ブラツラフはこのように書いています。
私たちが商売をし、働くことを義務付けられているのは、これが神の意志だからである。
私たちが商売に従事すること、労働に励むことには大いなる神秘と意味がある。
全てのトーラーのミツバに大いなる意味と神秘があるように、39種類の仕事には驚くべき素晴らしい神秘があるのである。
ミドラッシュでは、エノク(創世記で「神とともに歩んだ」とされる)は靴屋であったとしています。
エノクは靴を縫う職人であり、ひと針縫うごとに『主の栄光ある王国の名が永遠に祝福されますように』と唱えていた。
「シェマーの詠唱」において、常にシェマーの詠唱に付されるこの表現の意味について説明しました。
このフレーズは、地上における神の御名(神の王国)をただ一つにする能力がどんなに素晴らしく、超越的なものであるかを認識していることを表しています。
精神的なレベルに達していて「神とともに歩む」人、そして適切な集中力と意図を持って行動する人であれば、靴を縫うことでさえ神の支配と神の名が一つとなることを表すことを認識できます。
貧しい人なら誰でも施しを求めることを許されていますが、生活の方便を主から直接得るために自分の困窮した状態を最大限に活かすなら、主なる神と主への道のより近くに自分を置くことになるでしょう。
自ら満たすこと
経済的に自立できるよう努力することはユダヤ法の基本的な価値です。
ユダヤ法のあらゆる場所において、この原則の例を見ることができます。
ユダヤ法の権威ある大系であるシュルハーン・アルーフは、4つのセクションに分けて書かれています。
その全てに、経済的な自立を求めることの重要性を示す法を見ることができます。
オラフ・ハイムにおいては、朝のトーラーを学ぶための決まった時間を過ごした後、「仕事に行かなければならない。労働を伴わないトーラーは何の役にも立たず、結果として罪を引き寄せる。」と教えています。
また、若者に取引を教えることは安息日に論じることが許される類の大義ある試みであるとも言っています。
ヨレー・デアーにおいては、「たとえ尊敬される学者であっても、他人に依存して生きる者にならないように、卑しい仕事であろうが、嫌な仕事であろうが、何らか仕事に従事するべきである。」としています。
また、最高の喜捨とは、当座の求めを支援することではなく、自立しようとする人を支援することであるとしています。
イブン・ハーツールにおいては、夫は結婚契約書で義務付けられている通り、妻を支えるために仕事に出なければならないとしています。
ホシェン・ミシュパットにおいては、プロのギャンブラーは他に職業を持っていない場合は職業として表明できないとしています。
しかし、他に職業があり、「世界を支えることに貢献している」のならば、ギャンブラーも正しさを証明するのに十分な在り方であると考えることができます。
この義務の精神的な意義とは何でしょうか。
ラビ・クックは、次のタルムードの一節に基づいて興味深い説明をしています。
自ら満たすことは天を怖れることよりもより大きなことである。
天を怖れる者について、聖書は『主を恐れて、そのもろもろの戒めを大いに喜ぶ人はさいわいである。』と書いている。
しかし自ら満たす者について、聖書は『あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう。』と書いている。
タルムードでは、この「幸福」は世俗の幸せのことを指しており、これは天を怖れる者にも当てはまるとしていますが、「安らか」とは来るべき世界について言っており、勤労の実を食べる人の特別な素質を構成するとしています。
ラビ・クックは、「自ら満ち足りて得意になっている気分(自分の努力を楽しむ気分)は、人間の道徳的な感情のうちで最も完成された良いものである。」と言います。
この理由は、道徳心の根本となるのは人間の自由な意志と自由な行動だからです。
選択の自由と行動の自由が無ければ、価値の判断はできません。
人間はその自由と能力を使って、他人に依存することなく、可能な限り最大限、自分を完成させるのです。
ラビ・クックは、神の導きが最も高まるのは、私たちの求めに応えられるときではなく、私たち自身が彼ら(貧しい人たち)の面倒を見るための力を授けられるときだと言います。
このようにして私たちへの褒美は、物質的なものであれ精神的なものであれ、たまたま手に入っただけの外部的な贈り物とは違い、本当の私たち自身と深く繋がりを持つ事になります。
この考えはネハマ・デキシュファ、つまり「恥のパン」です。
ユダヤ人の倫理的な教えは、神が魂を作られ、それから直接精神的な喜びを吹き込まれたとしています。
しかし、魂が作られただけでは、喜びという褒美を受けていないので、得られる利益は限定的です。
主が私たちに「来るべき世界」のために働く機会を与えてくださり、働くことで「主に面と向かう」ことができ、主に「拝謁(読み:はいえつ 意味:身分の高い人に会うこと)」するという栄誉を賜ることができるのです。
ラビ・クックはまた、物理的なレベルにおける努力で人生を向上させてきた人は、精神的なレベルでも継続的に向上するための努力をすると言います。
逆に、他人に依存し、他人がくれるものによって満たされるような癖は、しばしば精神的な怠惰を招き、何もしなくても自然に得られる恵みだけで満足するようになってしまいます。
これが、現世における幸福と、来るべき世界における安らかさとの違いです。
今の世界が私たちに与えてくれる最大かつ本当の利益とは幸福な気持ちです。
これは物質的であれ精神的であれ、贈り物からも得られます。
しかし来るべき世界は真実と完全さがある世界であり、そこでの私たちのレベルは自身の在り方および人格の発達度合いとトーラーの受肉化度合に依存します。
自分に立脚して立つという性格の特性を磨いた人が、こうした成果を得られるのです。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
生きるということを考えてみました。それは「自分を最大限成長させる」ではないかと思います。この中に全ての要素が含まれている気がします。
貧困とは、自分への自信や自分に対する評価を欠いたことの「結果」とありました。
ZIPANGでも学習していたはずなのに、自信と自己評価を低くイメージしていたようです。ではどうすれば自信と自己評価を高くできるのか?
それはやるべき事をやり続け、自分を成長させていくことだと思いました。
仕事も、「来るべき世界に至るための貢献に結び付くように」と意識することが重要だと感じました。
また、喜捨とは、日本的・仏教的に言えば、功徳を積むという事ですね。
興味深いのは、「この世界での最大かつ、本当の利益は、幸福な気持ち」というところです。
至福感というものは、おいしいものを食べて満たされたとき、愛する人からの愛情を受けて満たされたとき、
長い間、手に入れようと努力していたものが手に入ったときなど、特別な瞬間ですよね。
この至福感をいつも感じられていたら、どのような状態でも「幸せ者」ですね。