タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

身の丈にあった衣服を身にまとうことは、慎ましく、尚且つ、人への礼節を表します。

ユダヤ人は、衣服の脱ぎ方や着かたも礼儀正しい手順で行います。
また、ユダヤ人は自身独りの時でも肌の露出を避けることが要求されます。

「慎ましい」という言葉には色々な意味合いがあり、対極ともいえるような解釈をすることもできます。

例えば、「自信がない」と取ることも、「傲慢ではない」と取ることもできます。
他にも、身体を充分に覆う衣服を着ることよりも、布を節約した衣服を身にまとうのが慎ましいという意味として捉えることもできます。

例えば、慎ましい人が露出の多い服を着たり、または、自分の収入に対して、贅沢とも言える服を着用することなどが挙げられます。
あるいは、普段は傲慢な人が全身を覆う礼儀正しい装いをすることもあります。

「慎ましい」という単語に共通している意味は、「内面が重要」だということです。
つまり、「私はどんな人物なのか」が大切であって、「私がどう見られているか」ではないということです。

多くの人が持っている価値観は、自分への注目を集めることを目的として使う過去の実績や格好、持ち物などで外部世界に描いた「私という表現」です。
しかし、これは本当の価値ではありません。

常に私たちの心の奥を感じ取ってくださる神が共に在ること、その認識が上がって行けば、自然と人は慎ましい振る舞いができるようになります。
慎ましい振る舞いは、自分が外部に向けて演じている振る舞いを防ぎ、神による評価基準を重視し、虚栄心による評価基準に縛られなくなります。

 

一人でいる時も礼儀正しく振る舞う

私たち(ユダヤ人)は、自分独りでいる時も礼儀正しく振る舞う必要があります。

「私は暗い部屋に独りでいます。誰が私を見るのでしょうか?」などとは考えないでください。

なぜなら、神の威光は世界中を覆っているからです。

こうした話をすると、「服を着ていたとしても、神には見透かされているのではないか?」という質問がありますが、これに対する答えの1つとして、「私たちの着る衣服は、私たちの思考や在り方の延長線なので、私たちの在り方を表すものである」ということです。

この考え方がユダヤの伝統においては、マナーのある慎ましい衣服を選ぶことの重要性の1つになります。

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。

彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

『旧約聖書』創世記 第3章6〜10節

 

 

このように、アダムとイブが自分たちが裸であることに気づいたとき、2人は裸を隠すためにイチジクの葉で身体を隠しますが、同時に神からも隠れようとしました。

つまり、アダムとイブは直感的に、衣服を着ずに神の御前に立つことは、礼を欠いている行為であり、罪深い状態であることを感じたのです。

罪を犯してしまいがちな自分の弱さを自覚するために、私たちは、自分の品位を映し出す礼儀正しい衣服を着用し、自分を戒めるべきなのです。

身なりを整えて、品位を保とうとしない人は、自分の罪深い側面やその傾向に対して、全く恥じていないということを意味します。

このような場合、神が目を留められるのは、肌の露出や素顔ではなく、何よりその人の横柄さです。

 

非ユダヤ人のように振る舞う

ユダヤ人は、ユダヤ人であろうと非ユダヤ人であろうと、一般的に着用されている衣服の禁止や制限はありません。
がしかし、非ユダヤ人だと思われるような服装をすることは許されておりません。

この戒律は、ハラハーの中でユダヤ人が危険な異教徒を含む非ユダヤの文化や習慣、思想と同化することを防ぐことを目的としています。

ハラハーとは、ユダヤのラビ達が解釈しているユダヤ人が守るべき掟にこと

ハラハーの戒律には、他にも非ユダヤが作ったワインや礼拝所を避けることなどもあります。

また別の面ではこの掟は、「慎ましさ」に直接関係しています。

非ユダヤ人のような服を着て外に出ることは、慎ましい精神と定義に反します。

例えば、肌の露出が激しい衣服は、「慎ましい」という定義の意味において反し、そうした服を着ることが外見に対する執着からくるものであれば、前に述べたように、精神においても慎ましさにも反することになります。

ユダヤ人は、ユダヤの正統派の服装が普通とは異なることを自覚していますので、周りいる非ユダヤ人と同じような服装を着たくなる誘惑に駆られます。

周りの人たちに、「私もあなたたちと同じですよ」ということを表したくなるのです。

また、「非ユダヤ人」を意味する「ゴイ」というヘブライ語がありますが、この「ゴイ」という言葉をユダヤ人が使うときには、自分たちがユダヤ人として、慎ましい振る舞いを忘れない民族であることや、ユダヤ民族の文化や在り方を強調するために使われます。

 

頭を覆う

男性は、頭を覆うことなしに4歩以上歩くこと、主(神)の名を唱えること、トーラーの言葉を口に出すことを禁じられています。

トーラーの知恵は世俗的なものとは違った教えであるだけでなく、トーラーを作られた神と繋がることを強く強調しなければなりません。

そのためには神の存在を積極的に知覚し続けることが要求されます。

この戒律の意義は、頭を覆うことは自分の頭上に神がいることを忘れないようにするためです。とくに聖なることに対しては大変重要です。

※女性はこの要求から免除されています。


本日の課題

1:今回の学びで気になった点や、日本と同じだなと思う点、あるいは日本とは違うと思われる点があればシェアしてください。

2:このチャプターの感想や気づきをシェアしてください。

※多くのユダヤ人は、この掟を守るためにキッパーと呼ばれる帽子をかぶっています。

※女性は免除されてるとは言え、多くの地域、とくに北アフリカでは女性もトーラーを学ぶときに頭を覆っています。

この戒律が女性が免除されている理由は、ハラハーの多くの箇所で、女性の髪はただ体の一部分というわけではなく、装飾品として見なされてるからだと考えられます。

女性がヘアスタイルに特別な関心を払うのはそのためです。ユダヤ女性は、髪自体が装飾品であることを感じており、髪が帽子の役割を果たすからです。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

3 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    日本では神職者が帽子をかぶりますが、日常では被る習慣がないように思えます。帽子かぶって挨拶するのは無礼な感じもします。また武士の髷は慎みの意味があったのかも知れませんが遺伝性脱毛症を判らなくするヘアースタイルだったのかも知れません。
    大切なのは流行りや虚栄ではなく誰に対して慎み礼儀正しくあるべきかということでしょうか。

  • まぐくる より:

    「慎ましい」という意味は、「内面が重要」であり、「私はどんな人物なのか」が大切であって、「私がどう見られているか」ではない。という部分に共感しました。昨今では、「他人にどう見られているか。」という事に気を取られ外見ばかりを磨き、内面や心を磨かない風潮があると感じました。

  • 伊藤 より:

    私の子供の頃は、家が裕福でなかったせいもあると思いますが、子供の洋服は母が布地を買ってきて裁縫してくれました。
    ズボンも穴があいても端切れで縫ってくれました。
    台所には台所の神様がいて、トイレにはトイレの神様がいて、お稲荷さんも祀ってあって。
    衣食住の中に神様が存在していて、ありがたい、勿体ない、という思想のようなものが残っていたように感じます。

    また、気づきですが、何か自分の人生にとって大きな決断をするとき、
    周りの目や世間一般常識を意識して行うのか、
    それとも自分の内面から自分はどうありたいと想うのか、それは天に恥じない行為かで判断するのか。
    私自身、今年は人生の分岐点になると感じておりますが、後者であるように心がけたいものです。

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