タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ

アラム語の翻訳で一緒に唱える三つの節はケドゥーシャ・ディシドラとして知られています。

これは主の御名を「順番に」聖別するものです。

その後に、主を褒め称え、私たちがトーラーの定めを満たすのに相応しくあることを願います。

私たちの祈りのうちで、この部分の恩恵は非常に大きく、賢人たちはこれがあるからこそ全世界が存続するのだと言います。

このケドゥーシャの秩序が無ければ、世界は無秩序な状態にバラバラになってしまうでしょう。

ラシビューポートは、この短い称賛に特有の偉大さを説明しています。

タルムードの時代においては、アミダーとタファナンの祈りの後にトーラーを学ぶのが習慣でした。

今日のシナゴーグにおいて、シャファリットの後に短いヨミット(今日の法)を唱えるのと同じです。

しかし人々は忙しいので、短縮版のトーラーの学びが導入されました。

これは主を称賛する三つの節から構成されていて、アラム語を話す一般の人たちにも分かるようにアラム語への翻訳が添えられています。

別の言い方をすれば、ユダヤ人たちによるトーラーの学びによって世界は無傷に保たれているということです。

これと同じ考えは、ラビ・シモン・バル・ヨハイの人生における重要な出来事の教訓でもありました。

ラビ・シモンとその息子エリエゼルは、ローマ人の抑圧者から身を隠すために12年間洞窟に閉じこもっていました。

昼も夜も公然のトーラーと秘密のトーラーの研究に明け暮れ、イナゴマメの木と、奇跡的にそこに表れた湧き水で食いつないでいました。

役人が捜索を止めると、彼らは洞窟を出ました。

ラビ・シモンは一切の世俗的な必要性に煩わされることなく、トーラーにその身を捧げることができました。

これがあまりにも上手く行ったので、彼は世間の人たちが生計を立てるために時間を使うことについて軽んじるようになってしまいました。

天の声が降り、ラビ・シモンと息子はさらに一年、洞窟に戻るように命じられました。

おそらくそこで彼らは、人間が生きるために必要な多くのことについて、より敏感に感じ取ることを学ぶものと思われました。

しかし二度目に外に出た時でさえもラビ・シモンは、世界はトーラーに全てを捧げている人(主に彼自身と息子)の恩恵によって存続しているのだと思い込んでいました。

これは明らかに、とてつもなく大きな責任として彼にのしかかりました。

その時彼は、差し迫った安息日のために二本の「ギンバイカ(銀梅花:祝いの木)」を持った一人の一般人が走って行くのを見ました。

ラビ・シモンがなぜ一本でも足りるのに二本の枝を持っているのかと尋ねると、これは安息日の二つの面であるザカー(思い出すこと)とシャマー(忘れないこと)に敬意を表すためのものだと彼は答えました。

そこでラビ・シモンは突然、トーラーの神秘と複雑さは、一般のユダヤ人のレベルにおいてさえも意味を持つべきなのだということを悟りました。

この男性は安息日の二つの性質に基づく、洗練された法的な見方を知っていたわけではなく、この二面性についての神秘的な秘密についても何も知りませんでした。

しかし彼にとっては、安息日に敬意を表すに当たって、一本ではなく二本のギンバイカを用いることが重要だったのです。

ラビ・シモンは、このくらいの義務と勉強の程度の人たちもまた世界を存続させる助けとなっていることを知り、精神が安らいだのでした 。

 

アレイヌ

祈りの儀式の最後に、私たちは主なる神を称え、将来の完全なる世界の訪れを望むアレイヌの祈りを唱える。

アレイヌの祈りは元々、新年祭のムサーフ(犠牲の祈り)の中の一部として礼拝に取り入れられ、今でもそこで行われています。

しかし数世紀に渡って、アレイヌは一年を通して毎日の祈りの結びとして唱えられるようになっています。

コルボ(ユダヤ人の儀式書)にある伝承によれば、アレイヌはヨシュアがエリコを征服した時に作られたということです。

この伝承に従うと、主がエジプトの兵士たちを紅海で押し流した後に、モーセとイスラエルの子らが歌った「海の歌」とアレイヌを比較することは示唆に富みます。

歴史上のその時点においては、ユダヤの人々は主への信心のレベルにおいて依然未成熟でした。

ある伝承では、エジプトにおけるユダヤ人が、その宗教的な誠実さに関して、「不浄なる49の門」の果てに沈み込んでいたと言います。

そして、エクソダスからシナイ山でトーラーが与えられるまでの49日間は、彼らがトーラーを受けるに値するレベルに達するまでに登らなければならなかった49の段階に対応するとしています。

海の歌は、そうした信心のレベルにある人々に対して話しかける体で書かれています。

そこでは、主は「いくさびと」と呼ばれ、どのようにエジプトの兵士たちに復讐したか、どのようにカナンの民族に恐怖をもたらしたかが詳細に語られています。

しかし40年後に、イスラエルの地に入ったユダヤ人たちは、全く別の民族になっていました。

シナイ山における啓示に出会い、そしてその他のトーラーに出会い、マナがもたらされることを通して、日常的な主の恵みを直接的に経験し、高いレベルの信仰心を持っていました。

それゆえ、彼らの主の恵みに対する反応は全く異なっています。

もちろん彼らもまた、海の水が二つに割れて敵を打ち破るという奇跡を経験しました。

しかし彼らの反応は、全く性格の異なる感謝の祈りを唱えるということでした。

海の歌が「これが私の神である」と繰り返し強調しているのに対し、アレイヌにおいては主が「万物の主」であると感得します。

海の歌では、ユダヤ人が特別なのは神に選ばれたからだとしています。

「あなたはあなたが選ばれた民をその御心によって導かれた」

しかしアレイヌの祈りにおいては、ユダヤ人はすでに本来持っている特別なレベルの高い精神に気づくことができています。

そして主に対し、異教の民族としてお創りにならなかったことを感謝するのです。

エジプトにおいて、イスラエルの子らはエジプトの神々に帰依させられる危険があったので、主にとってはエジプトの神々に対して審判を行うことを明確にすることが重要でした。

そして海の歌の中で、ユダヤ人は「主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか」と尋ねました。

しかしアレイヌの祈りでは、「彼ら(異教徒)は空虚で空っぽなものに対してひれ伏している」のように、異教の神々が全く現実的ではないことを直接的に認識することができていました。

将来への期待に目を向けても、同じような対照関係を見ることができます。

海の歌においては、「あなたの聖なるすまい」「あなたの嗣業の山」に主が導いてくださることを望んでいます。

しかしアレイヌにおいては、より広範な主の支配の表れを望んでおり、「全ての命あるものが主の御名を呼ぶ時まで」「地上に境界を置かれた主の王国において世界が修復されること」を望んでいます。

ヨシュアのアレイヌの祈りは、ユダヤ人が民族としての形を作り上げる40年に及ぶプロセスの最初ではなく、最後に表れました。

同じように日々のアレイヌの祈りも、祈りの儀式の最初ではなく最後に置かれます。

実際に、祈りの導入部分であるペスーケイ・デズィムラの部分において海の歌を歌います。

ここにあるメッセージは、ユダヤ教は普遍的なメッセージを含んでいるものの、そのビジョンの達成には個別的な道筋を通って行くしかないということです。

朝目が覚めたとき、ユダヤ人は個人に向けられた朝の祝祷を唱えます。

個人としての存在が確認されたことで、それから神によって選ばれたユダヤ民族としての居場所に目を向けることができます。

全ての祈りが完了して最高レベルの精神的な純粋さを獲得したとき、自分の世界を広げて「主はただ一つ、主の御名はただ一つ」になる日を思いながら、世界全体が完成すること、および全人類との繋がりに再び注意を払うことができるようになります。

 

本日の課題

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これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

タルムードと神道(34):テフィラー

タルムードと神道(35):アミダーの祈りへの追加

タルムードと神道(36):先唱者によるアミダーの復唱

タルムードと神道(37):埋め合わせの祈り

タルムードと神道(38):タファナン(懺悔の祈り)

タルムードと神道(39):週日のトーラー朗読

タルムードと神道(40):完全なトーラーの巻物を書くこと

2 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    「万物の主」に対して、私も理解が未熟です。漠然としたイメージでしか分かりません。学んで考え、ザカー(思い出すこと)とシャマー(忘れないこと)が大切ですね。自分も分け御霊であることを日々忘れないようにします。

  • 伊藤 より:

    「ユダヤ人たちによるトーラーの学びによって、世界は無傷に保たれている」
    とは、ユダヤの方々の神への純粋な祈り、想いが神に通じていて、それ故に
    現状世界が何とか存続している、という事ですね。
    私たちも、この学びを通じて祈りのレベルが高まっていけば、世界全体の完成
    へ繋がっていく訳ですね・・。 歴史的な大きな流れを感じます。

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