タルムードと神道(40):完全なトーラーの巻物を書くこと

トーラーが完全であることの必要性

トーラーはたった一文字でも間違いがあれば使用に耐えません。

省略されたり含まれたりすることがある、ある種の母音を表す文字は唯一の例外です。

間違いは間違いであり、修正を必要としますが、読むことの価値を落とすものではありません。

このトーラーの巻物に正確さを求める態度には美しさがあり、多くの異なるレベルの意味を持ちます。

最も単純なレベルでは、トーラーの正確な言葉と文字に対する敬意が、私たち一人一人とトーラーを与えてくださった主なる神との繋がりを導くということがあります。

部屋を貸すことを生業としながら、一つの部屋に鍵をかけて使わないようにしている大家がいるとします。

その部屋は、彼の息子が戦死するまで住んでいた部屋でした。

一見無駄遣いのようであり、利益が失われることになるにも関わらず、その部屋は息子が出て行った時のままにされていました。

これは、父親がその部屋の中にある物の並びに特別な意味を求めたのではなく、ただその部屋が、彼の愛した息子のものだったからそうしているのです。

同じように、文字の並びの意義は別として、私たちがトーラーにおける文字の並びを大切に思うのは、それらがまさに聖なる神から受け取ったものだからです。

このレベルにおいて、正確なテキストはトーラーを与え給うた主と私たちを結びつけるある種の「形見」となり、主が送ってくださったメッセージとはまた別の意味を持っています。

これは個人的で、感情に訴える繋がりを作り出します。

いずれの繋がりも私たちから主への愛の証となり、愛の形となるものなのです。

より深いレベルでは、トーラーの文字自体、言葉自体に意義があるということを伝統が教えています。

芸術作品のように、形式と内容が互いに補完し合うのです。

この考えについて説明しましょう。

モーセに示されたのは、書かれたトーラーと口伝のトーラーです。

後者は法の概要と行動についての規則であり、その内容において意義があるものですが、前者はその内容だけでなく形式にも聖性が内在しています。

実際に、賢人たちはこの形式から内容を推察し、トーラーにおける文字自体や文字の形式からさえも、法についての複雑な洞察と精神的な発見を引き出しています。

最後に、深遠な伝統は書かれたトーラー全てが主なる神の御名によって構成されていることを教えています。

文字の並び自体が主の存在の様々な表れなのです。

事実、この深遠な説明は最初に言及した単純で感情に訴えるような説明と密接に関係しています。

トーラーの文字に価値が認められるのは、それらが表すメッセージによってのみではなく、そのものが主なる神とユダヤ人の繋がりを示す直接的な啓示であり、顕現だからなのです。

 

「小さいわらべに導かれ」

もし文字が正しく書かれているかどうかわからない時には、アルファベットは知っているが文脈から推量できるほど賢くはない子供に、その文字を見せます。

この習慣は謙虚さの証であると同時に、これ自体が無知への美しい称賛です。

最も偉大な賢人たちが議論した後でさえ、最後には彼らは幼い子供に判断を仰ぎます。

エルサレムのとある優秀な書士は、他の書士の文字についての問題を抱えていました。

この問題を解決すれば熟練した書士やラビへ至るための業績をアピールできそうなほど、この問題は難しかったのですが、彼は最終的な判断を6歳の少年に委ねたのです。

 

それぞれの文字の固有の価値と、それぞれの人間の固有の価値

さらに、下敷きになっている法が重要な教えを含んでいます。

その文字自体が単独で意味を表している場合はどうなるのかと、疑問に思うことがあります。

結局のところ、文脈の中で明確に、時に曖昧に、文字を特定することになります。

文脈に基づいて個別の文字に意味を与えようとすると、実質的に文字の持つ意味を否定してしまうという問題があります。

このアプローチによれば、それぞれの個別の文字は余分なものであり、文脈を再構成する時にだけ意味を成すということになります。

しかしトーラーのやり方は、個別のものに固有の価値を与えます。

テキストはつまり、それを構成する文字の効力があってこそ存在するのです。

昔の習わしでは、ユダヤ人一人一人の魂はトーラーの中の一文字一文字に紐付けられていました。

これは、それぞれの文字に固有の重要性を見出すという原文に基づく原則と、それぞれの人間に固有の重要性を見出すという倫理に基づく原則を関連づけるものです。

ユダヤ法では「私たち一人の魂を誰かと取り替えることはない」と主張しています。

この原則に従ってトーラーでは、誰かの命を救うために(たとえ数名の命を救うためであっても)命を犠牲にすることを断固として禁止しています。

全ての人間は主なる神の姿に似せて創られているのであり、つまらない損得勘定のためにその姿を毀損することは出来ません。

この考えからユダヤ法では、臓器移植を必要としている若者の命を救うためであっても、生きている臓器を瀕死の患者から取り出すことには反対しています。

この原則は倫理学者の間でも全会一致には程遠いものですが、一人の命、一人の魂を尊重するユダヤの価値観に完全に一致します。

実際、主なる神がこの世界を一人の人間とともに創られたのは、まさにこの理由によるのであり、もしたった一つの魂を持つことができれば、全ての世界を持つことと同じであると教えるためにそうされたのだと、賢人たちは言っています。

社会とはそれ自体、個人が集まってできているものであると思い出すためには、時には幼い子供の単純さが必要になります。

私たちが個人のありのままに目を向けず、正しく評価できないのであれば、社会自体の全ての価値と意義は失われるでしょう。

五書全てが必要であること

トーラーの巻物には五書全てが含まれる必要があり、どれかが欠けていたり、巻物の綴じ糸に深刻な破れがあったりした場合でさえも、無効とされます。

しかし、トーラーの巻物のうちいずれか一冊に不具合があり、他の巻物は使用可能である場合は、読む箇所がそちらの使用可能な巻物の方であれば、それを読むことができます。

この矛盾は、完全に正しいトーラーの巻物と、集団で読むのにふさわしい巻物とで、考え方が微妙に異なることから来ています。

実際にタルムードでは、会衆に読み聞かせる場合には、トーラーの巻物の全てのルールに従えば、羊皮紙に書かれている製本のトーラーを使うことも基本的に可能であると示唆しています。

実際にはそれをしない理由は、製本のトーラーを読むことは会衆としての威厳にふさわしくないからです。

共同体は力を尽くして完全なトーラーの巻物を手に入れなければなりません。

トーラーの巻物は五書全てを含まなければなりません。

シナイの砂漠に滞留する間に、モーセが主なる神からトーラーの戒律について明確な預言を受けたことは間違いありません。

これらの預言がどのように5冊の別々の本として書き写され、まとめられたのかという点については2つの意見があります。

一つ目は、モーセは与えられた予言通りに順番に本を完成させたという意見であり、「トーラーは巻物ごとに与えられた」というものです。

もう一つは、モーセは全てのトーラーが示されるまで待ったという意見であり、全て揃ってから書き写したので、「トーラーは完全なパッケージとして与えられた」というものです。

タルムードの注解書であるマハーシャでは、この二通りの考え方は、二通りのトーラーとの関わり方に関係していると言います。

完全にして眩いばかりの預言者であるモーセの目から見れば、主がただ一つの存在であるように、トーラーもただ一つの存在であり分割されないものです。

しかし、トーラーの法は多種多様な環境と人間の世界に表されなければならないので、別々に分かれているように見えるのです。

同じような現象は芸術の世界にもあります。

芸術家の中には、ひと目見るだけで、あるいは一瞬の閃きで、交響曲や小説のような複雑な芸術作品の全体を着想し、理解さえする人がいます。

その閃きが、後になって苦労してノートや小節に書き写され、言葉やパラグラフになるのです。

モーセはトーラーの全貌を、主なる神の世界における内在的な存在として、ただ一つの閃きのうちに理解することができました。

その主の存在が、後になって苦労して何百もの詳細な法と規則に翻訳されなければならなかったのです。

伝統的に、トーラーの全ては「シナイ山において」受け取られたと言われますが、これは両方の説明と矛盾するように見えます。

トーラーが巻物ごとに与えられたにせよ、全巻が一度に与えられたにせよ、砂漠での滞在が終わるその時まで、つまりはモーセの人生が終わるその時まで、完成することはなかったからです。

しかしこの伝統は実際には互いに矛盾しません。

シナイ山におけるモーセへの啓示において、モーセは主の進まれる道と、ユダヤの民に対する使命を垣間見ましたが、その啓示によって後に主自身によって展開されることになる大きなビジョンの全貌が具体化されました。

モーセは主の言葉を「透明なガラス」越しに聞いたのに対し、他の預言者は透明でないガラス越しに聞いたという点で、モーセの預言は他の預言者と異なっていたと賢人たちは説明しています。

法を与える立場にはなかった他の預言者のビジョンとは違い、モーセのビジョンは明確で、焦点が絞られていました。

主の意志が人間の行動にどのように表れるかについての詳細を、モーセは見定めることができたのです。

ユダヤ人のルールについてはもう少し深く見ることができます。

トーラーの巻物は五書全て揃った時にのみ適格であり、完全であると言えます。

つまり、主から与えられた義務の全ての範囲が含まれている場合のみ、ということです。

そうでなければ、トーラーは特別な意味を持たない「ただのトーラー」になり、法は「ただの法」になります。

五書を一つに繋ぎ合せることによってのみ、モーセの包括的な予言の全ての面を巻物の中に見ることができます。

 

不完全な巻物を読むこと

会衆が集まってトーラーを読むことは、公の場でトーラーを学ぶということです。

この目的のためには、トーラーのある特定の切り口から得られる法や規則を聞けば十分であり、五書の中の一冊があれば十分です。

そうであってもやはり、会衆がそれぞれの本を持っているだけでは不十分です。

それでは、トーラーによって満足されるべき会衆の品位にふさわしくありません。

その会衆が全トーラーに出会うこと、主の啓示の全てに出会うことに対して熱心でないかのように思われかねません。

この理由から、会衆においては単体の製本のトーラーを読むことはありません。

もし読んでいる製本版が完全なものならば、例え他の本が完全ではなくとも許容できるかもしれません。

 

本日の課題

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これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

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タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

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タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

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タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

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タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

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タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

タルムードと神道(34):テフィラー

タルムードと神道(35):アミダーの祈りへの追加

タルムードと神道(36):先唱者によるアミダーの復唱

タルムードと神道(37):埋め合わせの祈り

タルムードと神道(38):タファナン(懺悔の祈り)

タルムードと神道(39):週日のトーラー朗読

2 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    ユダヤにとってトーラーがいかに大切なのか少し分かりました。気の遠くなるような遙かに古い教えなのに、いまこの瞬間も古の大いなる者とコンタクトが出来ているイメージです。最も古いが最も新しい感覚が神道とダブって見えました。

  • 伊藤 より:

    「トーラー全体の価値」、「それぞれの文字の固有の価値」、
    それは、神のご計画全体の聖性、それを構成している個々の人間の聖性、
    とも置き換えられるのかも知れません。
    原則法則に則った、様々な深い洞察が重なり合っておりますね。
    とても興味深いです。

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