タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

礼儀正しさの源は、どこにあるのでしょうか?
他人を不快にさせないために、私たちは礼儀正しくするべきなのか?

真の礼儀正しさは「天」や「神」の存在を知覚するところから始まると言います。

トーラーの極意

トーラーの知恵は世俗的なものとは違う教えであるというだけではなく、トーラーを創った神と繋がることになることを強く強調しなければなりません。
そのためには神の存在を積極的に知覚し続けることが要求されます。

神人合一

菅原道真は死後、学問の神となり、徳川家康は東照大権現となり、吉田松陰も松陰神社に神として祀られ、靖国神社でも英霊が祀られているように、日本の神道の極地は「神人合一」であり、神に至る道です。(*1)

神人合一とは
神道には、「神人合一」という言葉がありますが、これは人間の実体は魂であり、魂は神の分け御霊であり、人間の身体は、神から分けて頂いた魂の容れ物だという考え方です。すなわち、全ての人が神から与えられた魂であり、神の分け御霊を頂いた神の子…つまり、人の魂は神性を持っているという意味です。だから人は男も女も分け御霊を頂いているから相手を尊敬し合わなければならないのです。また、自然と人とは常に一体の関係にあり、自然がなくなったら人は生きていけません。「八百万の神」と言われるように、森羅万象には神が宿り、この自然と共に人は生きていくものなのです。

清く正しく生き、禊や祓いを通じて清潔な状態を整えていくことで、神様を自分の中にお迎えしていくことを目指します。

神社の多くは御神体として、鏡が設置されています。

これは、「鏡に映る自分自身の神を拝み、自分が神として相応わしい在り方をしているのかを反省する」という意味もありますし、「自分自身が神なので、願いごとをするのではなく、決意を奉納する」という意味もあります。

また、鏡(かがみ)という単語には、「かみ(神)」が入ってますが、現代人の多くは神を信仰しなくなったため、そこから神がいなくなり、「が(我)」…つまり「エゴ」だけが残る状態になっています。
だから、これを取り戻すためにも神道やユダヤの教えを学ぶ必要があるのです。

というわけで、神を信仰しましょう。神を自分に取り戻していきましょう。

 

神は本当に存在します。事実、神社の祈祷で神職が祝詞をあげ、祓いがよくできて、清浄な体になってくると自然と体が前後に揺れる現象が起こります。
また、偉大な経営者は自分一人で成し遂げようとせず、神仏の力を借りる傾向があり、かの松下幸之助も伊勢神宮に多額の寄付を行い崇敬会の会長を務めていたほどで、多くの形而上学の最終目的地は超自然的な力を借りることにあるようです。

松下幸之助

形而上学(けいじじょうがく)とは、神や霊魂を研究したり、世界の根本的な成り立ち、物や人間の存在理由などを研究する学問。感覚や経験を超える世界が本当に存在するものとし、その世界の真理を認識しようとする哲学的な分野のこと。

上記で、トーラーの知恵は世俗的なものとは違う教えであるというだけではなく、トーラーを創った神と繋がることになることを強く強調しなければなりません。そのためには神の存在を積極的に知覚し続けることが要求されます。…と言いましたが、つまりこれは、神の力を借りることができるようになるための学びなのです。

ユダヤ人が圧倒的な業績を歴史で出し続けているのは、実はこの「形而上学」に秘密があるのです。

日本人も本来なら、極めて信心深い民族であり、超自然の存在をどの国の民族よりも身近に感じながら自然と一体となって生活をしていたのですが、敗戦後、GHQによって超自然的な要素…つまり神道を学校で教えることが禁止となり、今では忘れられつつあるのです。

私たちは日本人として、この教えをもう一度取り戻さないといけません。

人間は罪を犯してしまいがち(ミツバーより)

罪を犯してしまいがちな私たちの弱さを自覚するためにも、私たちは、自身の品位を映し出すと感じられる礼儀正しい衣服を身にまとい、自分を戒め、服の助けを借りるべきなのです。

分け御霊

ユダヤ教では、人は罪を犯すことが人間の自然的な本質であると考えられています。

一方、日本では私たち人間は、誰も神様から魂を分け与えられているので、分け御霊だと考えます。

したがって、罪を犯することは、病氣、滅氣な状態であり、本来の元氣な状態では罪は犯さないというのが神道的な考えです。
そして、この分け御霊は、その罪を犯した人が、どれだけ悪いことをしても決して傷つくことなく、ずっとその人の中にある、といった愛の考え方でもあります。

一方、キリスト教においては、『旧約聖書』に登場するアダムとイブが神様との約束を破り、禁断の果実を食べたエピソードがありますが、これは、パウロがキリスト教の威光を高めるために、アダムとイブの罪を「原罪」として、取り返しのつかない罪に格上げされ、全人類は生まれながらに罪を背負って生まれるという考え方にしたのです。

補足
パウロとは、最初はキリスト教を迫害していたのに、後に回心してキリスト教徒となり、キリスト教発展の基礎を作った人物で、『新約聖書』の著者の1人。

なお、イエス・キリスト本人は原罪など説いておらず、『旧約聖書』にも「原罪」という単語や概念はありません。

本来は、「愛」の人であるイエスを信仰するキリスト教が罪から始まるようになってしまい、皮肉としかいいようがありません。

パウロ

八百万の神

「八百万の神」とは、米にも、木にも、石にも、はたまたトイレであっても神様が宿っていると考えますが、それと同時に分け御霊である人類すべてにおいても神が宿っており、全てが神だという考え方です。

なので、もともとは神社での参拝のように、村人同士の挨拶でパンパンと柏手を叩いてからお辞儀をしていたと言われます。

これは神様に対してのお辞儀と何も変わりありません。

主(神)を全身全霊で愛し、隣人を主と同じように愛しなさい、という考え方がキリスト教にはありますが、この「隣人」とは、誰を指すのかによって、かなり教義が変わってきてしまいます。

家族を「隣人」だとすれば、家族以外の人は敵になりかねず、キリスト教徒を「隣人」にすれば、キリスト教徒以外は敵になりかねず、人間全体を「隣人」とすれば人間以外は敵になりかねません。

日本においては、この「隣人」の定義は、「生きとし生けるもの(この世に生きているもの全て)」全てが「隣人」であるという考え方になります。

八百万信仰は、木も石もトイレも神であり、他人も神なのです。

全てが神なので、自然も大切にし、物も大切にし、他人も大切にすることができるのです。そして、それが神道の良いところでもあります。

イエス・キリストは、信じている教義や民族に分け隔てなく愛を与えた人です。
そして、「隣人」が全ての人のことを指しているのであれば、「主を全身全霊で愛し、隣人を主と同じように愛しなさい」という教えは、日本の八百万の神信仰と同じ考えであることが分かると思います。

創造神は全てを見ている(ミツバーより)

私たちは一人でいる時でさえも礼儀正しく振る舞う必要があります。
なので、「私は暗い部屋で一人です、誰が私を見るのでしょうか?」とは考えないで下さい。

神の威光は世界中を覆っているのですから。

お天道様が見ている

昔は日本でも、「お天道様が見てる」という表現が当たり前のようにされていました。

これは、人が見ていなかったとしても、お天道様(太陽)は見ているよ…という考え方です。
太陽は「天照大神」なので、常に天(神)が私たちの行いを見ている…という考え方は、日本人の中には自然とあるようです。

日本では、自動販売機がどこに行っても置いてありますし、田舎に行けば、無人の野菜売り場まであります。
が、外国人から見たら、こうしたサービスが成り立つことは大変驚きだそうです。

なぜなら、海外では日本のように自動販売機をあちこちに設置したら、直ぐに壊されて、中のお金や商品を奪われるからです。
なので、人が少ない場所には自動販売機は設置できないのです。

実際に海外に行くと分かりますが、自動販売機がなかなか置いてないので、飲み物を買おうと思ったときに困ることがよくあります。

当たり前のように、どこにもで自動販売機が置かれていて、さらには無人の野菜売り場までがある日本に、外国人はとても感動するそうです。
また、日本では財布をなくしても、財布の中から1円も抜き取られことなく、かなり高い確率で交番に届きますが、海外ではまずあり得ないことです。

礼儀正しい装い

日本において、礼儀正しい装いをすることは武家においては当たり前のことでした。
朝早く起き、手を洗い、口を濯ぎ、櫛で髪を整え、衣服を正し、腰刀、扇、火打ち石などの用具を整え、平旦の氣を育んでいたのです。

「平坦の氣を育むことを積み重ねることで、浩然の氣を手にすることができる」と吉田松陰は言っています。

「平坦の氣」とは、自分の足元をコツコツと固める精神のことを指し、「浩然の氣」とは、国や社会を変えようとする気概であり、周囲に大きな影響力を与えることのできる非常に強い氣だとも言えます。

火打袋は、火打ち石を入れる袋で、神道において祓いに使う道具で、扇も神道の儀式でよく使う道具です。
武士は目に見えない「氣」を味方につけることを追求していたようで、それが海外においても、武士・侍を特別な存在として扱っている要素の一つです。

手洗いや嗽、火打ち石などの祓いや、早起きの習慣、礼儀正しい装いは、神や超自然的な氣を「招聘(しょうへい)=丁重な態度で招くこと」する上では、とても重要だと考えられていました。
しかし、現代人の価値観は、注目を集めることを目的とした過去の実績や意見、格好や持ち物などで、これは外部世界に描いた「私という表現」とは全く意味が違います。

補足
火打ち石は古来より、火は清浄なものだという考え方から、火打石で火花を起こすことは身を清めるたり、魔除けになるというお祓いの意味があった。

衣食住は、それぞれ分をわきまえるべきである。
もし衣食住それぞれ、分を過ぎてしまえば、財源がなくなり、武士本来の役割である、強い兵力を持つことができなくなる。
逆に、分よりも少なく暮らしていては、志もケチになり、これもよろしくない。
武士において分をわきまえる服装とは、武を最大限全うすることができるものである。
志士とは、すなわち大義、道理を志す人物であり、君子である。
リーダーの志がその大義、道理にのみ注がれているのであれば、なぜ衣服が粗末で、食べ物が質素であることを恥ずかしいと思うのか?
論語に曰く、大義の道を志ながら、衣服や食事が粗末なことを恥じる者は、ともに大義を語る相手ではない。つまり、志士ではないのである。

と、吉田松陰は言っています。

創造神による評価基準に心を寄せる(ミツバー)

常に私たちの心の奥を感じ取っている神が共に在ることへの知覚が上がっていけば、自然と私たちは慎ましい振る舞いをするようになります。
同様に、慎ましい振る舞いは、外向けへの自分を演じる癖を治すことを助けてくれます。
そして神による評価基準に心を寄せるようになり、人間の虚栄心による評価基準に縛られなくなります。

吾、今、国の為に死す。死して君親に背かず。悠悠たり天地の事。鑑照は明神にあり

この言葉は、吉田松陰が処刑直前に書いたものです。
吉田松陰の最期は罪人として、斬首の刑にあり、幕府や人の評価基準では悪人だったわけですが、しかし、本人の心はどうだったのでしょうか?

上の文を分かりやすく訳すとこうなります。

私は、今からこの国のために死にます。
死ぬことになりますが、両親、君主に対して恥ずかしいことは何もありません。
美しい自然が広がる天地のことは限りなく広がりゆったりとしております。
私のことは神様が見てくれています。

と、このように、吉田松陰の悠々とした最期は処刑執行を行う幕府の役人たちの心も打ち、

先ごろ死罪になった吉田寅次郎(松陰)のふるまいには、みな感動して、泣いていました。

とあるのです。

「正しい」というのは一体なんでしょうか。
常識によって正しさが決められるのでしょうか。
周りの人々が言ってることが正しさなのでしょうか。
それとも法律によって正しいが決められるのでしょうか。

ユダヤ人は、人間が決めた法律ではなく、「自然法」という神が定めた原理原則の法則を重要視します。
ミツバーには、「神による評価基準に心を寄せるようになり、人間の虚栄心による評価基準に縛られなくなる」とあるように、吉田松陰は人間による評価基準の正しさで言うと間違っていました。

がしかし、天地や志、道理、大義などから言うと、間違っていることもなければ、負い目もない。それどころか、自分の行動の正しさは天がご照覧あられると言って、胸を張ってこの世を去り、周りの人々をも感動させ、涙を流させるほどまでの見事な最期だったのです。

生き様と死に様

私たちはどのように生きれば良いのでしょうか?
人から後ろ指をさされずに生きれば良いのでしょうか?
法律や常識を守り、人に迷惑をかけずに生きれば良いのでしょうか?

その答えは、人間の作ったものの中にはなく、天や神と言ったもっと大きな存在にあるのではないでしょうか。

 


本日の課題

1:私たちはどのように生きれば良いのか?あなたのお考えをお聞かせください。

2:このページ読んで、あなたが心に感じたことや気づきをシェアしてください。

(*1)「神道の本質は言挙げせず」とあり、つまり、神道には教義もなければ、教祖もいません。

記紀神話や万葉集、祝詞などを読んだり、神社への参拝なでを通して、日本の文化・習慣から道を理解していくのが神道です。ただ、神道の解釈は一通りではなく、八百万の神と言われるように800万通りの解釈があるそうです。なので、八田塾での教えは、その中の1つだということを留めておていください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

4 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    これまで長い時間、神に目を背け生きてきたようです。「分け御魂」という概念を知った時にハッとしました。人や物、自然、全てを尊重し「我」を取り去り、自然体で生きてゆけば神と繋がれるような気がします。煩悩や穢れが多い私ですが、これらを意識して日々精進します。
    吉田松陰は本当に素晴らしい方のようです。かつての日本には本物の武士が居たのですね。心が震えます。

  • ji120152-2723@tbp.t-com.ne.jp より:

    私たちは自然を大切にし、時代に合わせつつも不便を受け入れて生活して行くべきだと思いました。
    お金を稼ぐにしても、人のためになることで稼いでいくべきだと思います。
    自分の子供にも継承していって、未来を作っていきたいです。

  • まぐくる より:

    子供の頃に母から「他人が見てなくても神様や御先祖様が見ているから、礼儀正しくしなさい!」と教わったことがあります。
    隣人を愛し八百万の神々の存在を知覚し、何にでも神性は宿る事を理解し、これからも形而上学を学んで慎ましく生きていこうと感じました。

    いつもありがとうございます。

  • 伊藤 より:

    1.私が個人的に傾注しているビジネス書の「7つの習慣」は、私の人生観を変えた良書です。
      人が「依存」レベルから「自立」、そして「相互依存」まで人格が成長していくためのスキルを表していますが、
      その根本は人の心の奥から湧き出てくる良心に基づく行動であり、人の思想や気分・価値観ではなく、
      自然の摂理・原理に従い行動することが成長・繁栄に繋がるということです。
      やはり、成長・繁栄してくための基本は、古今東西、同じであり、その偉大なる智恵に従った生き方こそが、
      目指すべき生き方だと思います。

    2.八百万の神々という神道の教えが、日本人の物を尊ぶ習慣に結びついていると感じました。
      職人は道具を大切にし、料理人は素材を大切にし、心を込めて作品や料理を作る。
      また、家の中にも神様を祀ったり、お盆にはご先祖様をお迎えしたり。食前には手を合わせてから頂いたり。
      改めて、日本人は極めて霊的な民族であると感じました。
      ありがとうございます。

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