日没の少し前、シャバットのロウソクに明かりを灯さなければならない。
このミツバは理想的には妻によって満たされるべきである。
シャバットのロウソクに火を灯すことは、ユダヤ人の習慣の中で最も有名で、よく見られるもののひとつです。
基本的な目的は、よく照らされた場所で食事をすることで、シャバットに楽しみを加えることです。
「シャバットの聖性」で扱った、神の輝きを吸収するというテーマとの繋がりは明らかです。
仕事を終えてロウソクに火を灯す
シャバットの義務と禁止事項は日が落ちることによって導入されます。
しかし私たちは、日没の少し前であってもシャバットの義務を始めることができますし、むしろ義務でさえあります。
そして、シャバットのロウソクに火を灯すことは、シャバットを迎えるための習慣的なやり方の一つです。
この追加的な時間はトセフェ・シャバットとして知られており、ケドゥシャーには多少劣るものの、シャバット自体に聖性を加えるものです。
シャバットの最初と最後に数分を加える義務は、「汚れたものから聖なるものに加える」という一般的な義務の一部です。
しかし、汚れたものを聖別するという能力には、ケドゥシャーを拡大することはできるが創り出すことはできないという、非常に重要な条件が付いています。
誰も、普通の平日を聖なる日に変えることはできず、荒れ果てた地を聖なる地に変えることもできないのです。
しかし、一度神によって聖なるものが創り出されたならば、私たちはこれを拡大することができます。
シャバットの聖性は早く始まり、遅く終わることができます。
イスラエルの地の聖性はそれが正しく実現されたならば、近隣の土地まで広がることができるでしょう。
この制限は「汚れたものから聖なるものに加える」という表現ですでに示されています。
つまり、私たちはすでに存在するものに聖性を加えるのです。

夫婦の調和
タルムードではシャバットの項で、シャバットのロウソクに特別な重要性を見出していますが、これはこのロウソクが家庭内の調和(シャローム・バイト)に貢献するものだからです。
シャバットの日、特にシャバットの食卓は、家族の絆を作り出す、取り分け夫婦の間の絆を作り出す特異な力を持つと考えられてきました。
シャバットにおける多くの習慣がこのシャバットの夜の特別な側面を証明しています。
1.(少なくとも)二本のシャバットのロウソクに火を灯す習慣。二本のロウソクはとりわけ、男性と女性、夫と妻を象徴しています。
2.夫がシャバットのロウソクを準備し、妻が火を灯す習慣。家の中の物質的な条件を整える責任を持つのは夫ですが、夫と妻両方の精神的な炎を燃え立たせるのは妻なのです。賢人たちは、妻を持たずに生きることはトーラーを持たずに生きることに等しいと教えています。
3.この後、キドゥーシュの始めに夫はシャバットのロウソクを見なくてはなりませんが、このことによって夫は、自分がシャバットの聖性を放出することができるのは妻の努力のおかげであることを思い出します。
4.シャバットの食事の前にはエシェット・ハイルを歌う習慣があります。これは聖書にある、ユダヤ人の家庭のバックボーンである妻、母を「勇敢なる女性」として称える一節です。この後、夫と妻はそれぞれ子供たち一人一人を祝福します。
5.シャバットの夜には夫と妻がそれぞれ自分の時間を作ることがミツバとされています。
シャバットの明かりと家庭内の調和の関係に言及した直後に、タルムードではこのミツバが子供たちのトーラーの学びに特別な祝福をもたらすと言っています。
美しいシャバットの明かりを灯すことを習慣とする人は、息子にトーラー学者を持つというものです。
これが同時に言われているということは、子供たちのトーラーの学びにとって両親の間にある愛情と理解が重要な役割を果たすことを示唆しているのかもしれません。
逆に、夫と妻が生まれた時のトーラーの光への信仰によって結びついているのであれば、彼らの関係自体の光もまた明々と輝くことでしょう。
「思い出すこと」と「覚えておくこと」
二本のロウソクのもう一つの象徴的意味は、「思い出すこと」と「覚えておくこと」というシャバットの義務の二つの側面に対応しています。
シャバットの義務は十戒の一つです。
十戒はトーラーの中で二度言及されています。
十戒が伝えられた時(出エジプト記20章)と、モーセが荒れ野での滞在を最後に総括する時(申命記5章)です。
この二箇所でのシャバットの戒律の表現は異なっています。
出エジプト記においては、トーラーは安息日を聖とすることを「思い出す」ように言っています。
申命記におけるミツバは安息日を「覚えておき」、注意することを言っています。
タルムードは、一つの主の命令がこの二つの表現を包括すると説明しています。
これは、「思い出す」ことと「覚えておく」ことというシャバットの二つの側面が両方とも不可欠であることを示唆しています。
一般的に、シャバットは「対」の日です。
二本のロウソクは思い出すことと覚えておくことを象徴します。
ふた塊のパンが毎回の食事に必要です。
シャバットは天地創造の記念であり、エクソダスの記念でもあります(いずれも金曜日の夜のキドゥーシュで言及されます)、などなどです。
このように対が強調されていることのもっともシンプルな理解は、シャバットの存在自体が労働と休息にバランスをもたらし、世界にバランスをもたらすものであるということです。
しかし、この組み合わせはまた、シャバット自体に二つの性質があることを示唆しています。
ザハーとシャモアの関係を理解する方法の一つは次のようなものです。
「思い出すこと」は過去に関わることであり、「注意すること」は将来に関わることである。
注意すること、何かを守ることとは、将来それが起こり得る不運な出来事を防ぐことです。
さらに言えば、ヘブライ語のシャモアには、「注意する」と同じく「予測する」という意味があります。
ですから、シャバットを「思い出す」ことは、記念としてのシャバットに関係しています。
つまり、過去の重要な出来事である、天地創造とエクソダスの記念です。
シャバットを「覚えておく」ことは、将来の予測としてのシャバットに関係しています。
つまり、シャバットの食後の祈りで「全てがシャバットである世界」と言うように、完全な世界への予測です。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること
タルムードと神道(79):特別な助けに対する感謝とその助けを求めること
タルムードと神道(84):融資におけるパートナーシップ上の許容
ロウソクを灯すという行為を仏前でよくやります。シャバットではありませんが共通項を感じます。過去への感謝と未来に対する決意といったものでしょうか。